草加の人は自信がない人が多い。ここは、もっと自信を持った方がいいよってことを伝える場。
- 2020年10月19日
- 大田 俊郎
大田俊郎さんを一言で語るのは難しい。高校卒業後、大阪から上京し靴職人として働き、後にバー Apache JCT(Country MORE)の経営を始めます。サーフィンをきっかけに行ったアメリカ、特にインディアン文化に精通していることから、インディアン作家によるクラフト作品の販売、ディズニーランドのインディアン関連施設の監修、芸能人のライブコスチュームのデザイン等もおこなった経験があります。
「いろいろ好きなことやってますよ」と話す大田さん。アメリカのこと、バーのこと、インディアン・クラフトのことなど、たくさんのお話を聞くことができました。
ロン毛だと、バイクの免許すら取れない時代
大阪出身の大田さんは、18才の時に上京します。当時、ロン毛で茶髪だったため働こうにも、どこも雇ってくれなかったそうです。そこで足立区で靴職人をしているお兄さんのところへ来て仕事を始めました。
ロン毛だと、バイクの免許すら取れないんだから。おまわりさんから『髪の毛切ってくれれば、免許取れるから』って言われたりして。そういう時代だった。
でもアメリカに行って、こんなに髪の毛が長いのに、なんでそこを聞かないんだろう?って不思議だった。ちゃんと中身をみてくれる。アメリカは広いよなと思ったし、当時の俺からしたら素晴らしい大人だなって思った。
好きなことをやっていると、色々な人と繋がる
サーフィンをきっかけにアメリカへ
靴職人の時にサーフィンを始め、教えてもらったりしているうちに、色々な人と関わるようになります。日本で初めてサーフボードを作った高橋太郎氏(以下、タローさん)も、その一人でした。
自身の新婚旅行として行ったカリフォルニアやハワイへのサーフィン旅行に、タローさんも同行するほど、仲が良かったと言います。その自然な流れで、タローさんの親戚にあたる高橋吾郎氏(以下、ゴローさん)とも、交流を深めていきました。
ゴローさんは、原宿にあるインディアンジュエリーショップ「ゴローズ」の創業者です。ゴローさん自身が作る繊細なインディアンジュエリーは多くの有名人も愛用し、亡くなった現在も原宿のショップはファンが絶えない人気店です。
サーフィンをきっかけに行ったアメリカへは何度も訪問し、現地のインディアン(※注)との交流もありました。その経験やゴローさんとの関係により、インディアンジュエリーを好んでいましたが、当時は仕事にするつもりはなかったと言います。
インディアンのクラフト作品を販売
インディアン作家のクラフト販売を仕事にすることになったのは、ダンス・ウィズ・ウルブズの映画が上映された1990年。その映画の衣装や小物を作っているアーティストの商品を日本で売りたいという会社から、友人を通して大田さんに依頼があったのがきっかけでした。
それを持ってきた日本の会社の人が『もし大田さんがやらないのなら商社に任せるつもりだ』と言ってきたから、ちょっとカチンときちゃって。インディアンたちが作ったものを、感覚のわからない会社の人たちが売るのは嫌だなって思って、やることにしたの。
例えば、輸入小物などを扱う多くの小売業は、輸入業者・卸・お店オーナー・販売員というように、多くの会社や人を介してようやくお客さんに届けられることが多いですが、大田さんはそのやり方だと、モノの本質が伝わらないと言います。
僕は全部やりたかったの。仕入れも作っている人に会って、自分で選んで、自分で運んで、自分で売る。その方が分かりやすいから。仲介の数が増えてくるほど話がだんだん変わっていってしまうじゃない?作る工程とか場所とかシチュエーションが伝わらないと、やっぱり「モノ」って活きてこないんじゃないかな?
それがきっかけで、草加にインディアンのクラフトを扱うショップを作ることになります。そこでは、サウスダコタでインディアン作家の商品を販売している店舗「プレイリー・エッジ」の商品をはじめ、さらにはアリゾナなどインディアンの多いエリアの作家の作品も取り扱っていました。(現在は閉店しています)
自分で作ったお店で、自分で選んだ商品を自分で売る。そうしていると、色々な縁ができ、8年ほどテレビのショップチャンネルに出て商品を売っていたこともあると言います。
好きなようにしていいって言われてたんで、好きにやらせてもらっていた。
僕がいくつか持ってきたサンプルからショップチャンネルの人がピックアップして、それを現地のインディアン作家に作ってもらうという形をとっていた。それを100個とか200個という単位で発注するんだけど、結局7・8個しかできなかったって言われたりしたこともあって(笑)
で、それもテレビで喋っちゃうの(笑)
そもそもみんな、インディアンって本当にいるの?っていう感じだったし。みんな羽飾りしている世界だと思っているようだけど違うよ。っていうのをテレビで伝えていた。
アメリカのバーみたいな場所を作りたい
そこにいる人みんなが友達になるような場所
バーを始めたのは、インディアンのクラフト販売の仕事を始める9年前の1981年。友人がこの場所でやっていた喫茶店(Country MORE)を閉めることになり、相談された大田さんが「アメリカのバーみたいな場所を作りたい」と思ったのが、きっかけでした。
大田さんが体験した当時のアメリカのバーとは、お客さんが皆、ビールを片手に店内をうろうろと歩き回って、他のお客さんに挨拶したり喋りかけたりしているような場所でした。そこにいる人みんなが友達になってしまうような、そんな場所を作りたかったと言います。
アメリカのバーへは何度も行っていたので、その形状は知っている。けれど当時、お金がなかったので自分でやるしかない。それで自分で大工仕事をしてお店の内装や外装を作りこんでいきました。
例えば大工さんに頼んだとしても、感覚がわかっていないからみんな『綺麗』に作ろうとしちゃう。
「大工仕事の経験は全く無い」という大田さん。誰もが「アメリカのバーってこんな雰囲気なんだろうな」と感じさせるような重厚感のある空間を、作り上げていきました。
「草加にもこんな店があるんだ」から広まっていった。
お店で扱っているテクス・メクス料理というタコスなどのメキシコ風アメリカ料理も、当時の日本では、出している店は少なかったそうです。
オープン当時は、その料理を、アメリカの和風のバーのような感じで、箸で出していたそうです。ところがある日、お客さんの一人から「埼玉は箸なんだ」とバカにしたような声が聞こえたことがあったと言います。
それで、全て切り替えることに。箸は使わずにフォークにして、ジュースからお酒から全てアメリカのものを扱うことにしました。すると、お客さんは「草加にもこんな店があるんだ」という反応に変わっていきました。そして次に「俺はこんな店を知っている」と紹介するようになっていったと言います。
こういうことかと。草加のこの辺の人たちって、東京からこんなに近いのにみんな自信がないんだな。って。
その頃、よく『アメリカに行ったことあるんですか?』って聞かれたりして、『サーフィンしに行ったりするよ。実際のアメリカのバーでもこれと同じだよ。』なんて言うと、みんな黙っちゃう。そういうのを見ていて『もっと自信を持たせなきゃ』って思って。
ただ、麻布の方からもお客さんが来てくれたりしていたのは助かったね。そうすると、みんな本当にアメリカのバーと同じだということを信用してくれる。
それぞれのストーリーを作って欲しい
海外旅行に行くことが、昔ほどハードルが高くなくなった今でも、「アメリカに行ってみたい」と相談するお客さんがいるそうです。そんな時、大田さんは、だいたい同じようなところで失敗するだろうポイントを、敢えて言わないそうです。
僕なんかは、ポンと背中を押すだけだから。いっぱい失敗して来いって。だってスムーズに行った思い出は、残らないもん。失敗したことだけが残るから。自分のダサさを自分でわかることが大事。
自分だって、タローさんに『行ってこい!』って言われて行ったのがきっかけだから。当時は英語なんて 「How much」と「just looking」くらいしか教えられていないんだから。笑
今は、作りたかったバーに近づいてきている
お店にいる人がみんな友達になってしまうような一体感のあるバーをやりたいと思って40年。最近ようやく「そうなったらいいな」と思っていた姿に近づいてきていると言います。
1・2年でそうなるつもりが40年かかっちゃった。笑
日本人だけだと、やはりみんなテーブルに座ったら、そこで大人しく飲んでいることが多く、たまに外国人が来ると、話しかけたりする雰囲気になることもあると言います。ようやく最近になって、誰かがダーツを始めると「一緒にやろうよ」と誘う人がいたりと随分変わってきましたが、最初の頃は難しかったそうです。
感謝の意も込めて、来年の40年目の年のどこか1日だけ、お客さんが喜んでくれるようなイベントやろうと考えているそうです。
お店もバランスを欠いていたらとっくにダメになっている。今まで、業者と俺とお客さんとで、バランスを保ちながら進んできたけれど、どこかで「自分だけ」ってなった途端、沈んじゃう。
自分だけが儲かれば良いと言う考えはないと言います。関わる人みんなが平等に良くならないと成立しない。「自分だけ」と進んでしまうと、信用が削られていくと。
それは、大田さんが影響を受けたインディアンの「私たち人間を含む自然界の万物は、お互いに調和し合いながら輪を描いて生きている」という思想にも通じる考え方だと話してくれました。
「記事にしようとすると難しく考えてしまいがちだけど、そんな難しいことでもない。」と、時々少し困った様子を見せながらも色々なお話をしていただきました。「俺の知り合いのタローさんとかゴローさんも、みんな神様みたいに言っているけど普通の人だった。ただみんな好きなことをやり続けただけ」という言葉が印象的でした。「好きなことをやり続ける」言葉にすると簡単に聞こえるかもしれないけれど、好きを続けることは、意思の強さであり、才能なんだろうな。と、そんなことを思いました。
インタビュー場所
APACHE JCT a.k.a. COUNTRY MORE Restaurant Bar 〒340-0011 埼玉県草加市栄町3丁目1−20
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